境界性人格障害の”ぴのこ(@border_bpd)”です。
ぴのこの生い立ちはこちら↓
自分の好きな物って何?
自分ってどんな人間?
どんな人になりたい?
私は何がしたい?
私はどうすればいい?
なんだか、やることなすこと間違っている気がする・・・
DSM診断基準③の「同一性の混乱」の症状による、上記のような事で悩んでいないでしょうか。

自分がどうしたいのか、一体なんなんだか全然わからない
「同一性の混乱」に関しての私の具体的な症状は、前の記事で紹介しました。
今日は、この「同一性の混乱」への私なりの対処法について考えてみることにしました。
※DSM診断基準は 境界性人格障害(本人)ぴのこの半生を暴露←この記事に書いてあります。
全然よくわからないままでいい。自分を愛そう。
自分が人からどういう風に見られているのかが全然わからない・・・
自分はすごい不細工な気もするし、すごく美しい気もするし・・・
そんなこと思ってしまうのって、私は頭がおかしいんじゃないか・・・
人からの評価も信じられないし素直に受け止められないから、相手に失礼なんじゃないか・・・
こんな風にずっと悩んでいました。

自分がどんなふうに見えているのか全くわからない
人から言われる誉め言葉にも裏があるように思えてしまうし、「もしかしたら自分はものすごく醜いんじゃないか?」とか考えてしまって、いつもすごく不安。
いい年して、自分はまるで思春期のような思考回路なのだろうか?とか気にしていました。

どういうこと?

なかなかうまく説明できないのだけど・・
境界性人格障害の「理想化とこき下ろし」の症状では、過大評価と軽蔑の間を行ったり来たりしてしまいます。
この症状は、大半が相手に向かうものなのですが・・・
この理想化とこき下ろしが自分に向かった結果、自分自身が無価値化してしまうと本当につらいんですよね。
また、見捨てられ不安まで発動してしまい、「外見が良くないと捨てられる!!」という気持ちも追い打ちをかけてくるんですよね。

不安すぎる
いつも一定の温度で自分のことを評価できればいいのですが、乱高下してしまうので、自分で自分の事がよくわからないんです。
“見捨てられてしまうかもしれない自分”と”見捨てられるはずもない自分”の間を行ったり来たりする結果、ものすごく疲れてしまう。
私の場合は、お洒落したり服やコスメを買うのも、自分のためというよりかは第三者から評価されるため、になってしまっていました。

そんなこんなで、生きてるだけで疲れてました
自分がその服が好きだから、好きなテイストだから、ではなくて「おしゃれだね」「かわいいね」「それ素敵ね」 そういった他人からの評価を目標にしているんですね。

そういう風に考えていたんだね

うん、ちょっとおかしいかなぁ?
そこで、ありきたりですが、人から何と言われようと、自分が自分に対してどんな評価を下そうと、”自分で自分を大事にする” 意識をなるべく持つようにしています。
ついつい「太ってるな自分・・」とか「肌荒れひどいな・・」とか「年とともに劣化してきたな・・」と思うと、自分で自分をボコボコに殴りたくなったり、やけになって過食したりしたくなってしまいますが、それも良しとします。

前はそんな自分は絶対に許せなかった

厳しいなぁ・・
どんな時でも自分を愛してあげられるのは自分だけ、という意識を持つことが大事かな、と。
自分がよくわからないせいで自分自身がグラグラして、がっかりしてしまう時こそ、自分を大切にしていたわるようにしています。

自分の得体は知れなくても、自分で自分を見捨てない!

なるほど
こういった考え方を少しずつ取り入れていくうちに、「うーん、案外そのままの自分というのも、いいんじゃないかな」と思えるようになりました。
間違えていたっていいと思おう
間違えた休日の過ごし方なんじゃないか・・・
どういう事が正解なんだかわからない・・・
何を選べば適切なのかがわからない・・・
自分の選択肢はいつも間違ってる気がする・・・
生きてること自体間違ってる気がする・・・

色々と違う気がして、全然自信が持てないんです

なんでだろう?
私の場合は、”世間的に正しい(=立派?)とされている事をしなさい”といつも言われてきた養育環境に原因があるような気がしています。
人から見て恥ずかしいことをするんじゃないよ、みたいな感じです。
名門大学に通うとか、一流企業に就職するとか、聞こえのいい習い事をするとか、ですね。

今までずっと誰かのために生きてきた気がする
交際相手を選ぶのも、会社を選ぶのも、食事のメニューを選ぶのも、正しいのか間違っているのかが、自分ではわかりませんでした。
でも、夕飯のメニューひとつにすら悩み込んで疲れ切ってしまったある時期から、私の人生は親の人生じゃないんだ、と考えるようにしました。
いつだって私は「これは正解か?不正解か?」をいつも考えるようになってしまったけれど、私の人生の事は私が決めればいいんじゃないかなって思うようにしたんです。
その夕飯は親が食べるわけじゃないし、その就職先で親が働くわけではないし、その恋人と親が付き合うわけではないんですよね。
なので、正しいか間違っているかをその都度ジャッジするのはやめました。

具体的には?

かなり楽になれたよ
したいことがなくてOK。それでもそのままで生きていていい
何がしたいか?わからない・・・
何を食べたいか?わからない・・・
何を着たいか?わからない・・・
何が好きか?わからない・・・
どういう人になりたいか?わからない・・・
そんなことより、もう生きていたくない・・・

とにかく色々、わからない
境界性人格障害の色々な症状が辛すぎて、最低限のことを望んできた結果、いつしか人生を楽しむ方法が本当に分からなくなってしまったのだろうか?という程に、私には、自分のしたいことがよくわかりません。

いまだにその傾向がある
誰かと一緒ににいれば、「相手(あなた)のしたいことでいいよ」「相手(あなた)の思うようにしようよ」「相手(あなた)の食べたいもの食べようよ」と思ってしまう。
何がしたいか?敢えて私が言うのならば「生きていたくない、リセットボタンあるなら今すぐ押したい」とずっと考えていました。

産んだ親を呪ってた
相手の顔色をうかがうあまり、暑い、寒いすら口に出せませんでした。

何で言えないのかな?

自分は我慢すればいいと思っちゃう
我慢した結果、言えない結果、自分の意にそぐわないことをした結果、後でストレス大爆発するんですけどね。
また、やりたいことも趣味も特になくて、その上自分の個性もないから「すごくつまらない人間だって思われてるんだろうな」とも思い悩んでいました。

自分のことゴミみたいと思っていた
でも、ある時気づきました。境界性人格障害の場合、生き続けるだけでもすごく難易度が高くて、それはすごいことで、価値があるんだよ、ということに。
つい健常者の友達やインスタのキラキラライフなんかを見ていると、まぶしい異世界に目がくらみますが・・
地味に毎日呼吸し続けているだけでも表彰状ものだよな、って思うんです。
それだけ、境界性人格障害は生きるのがつらい病気だなぁ・・・って実感しています。
希死念慮が強すぎて、まさか30代まで私は生きているとは思ってもいませんでしたが、なんとか生き延びました。

生きててよかった

・・・
無理して輝く必要はないし、自分の居心地のいい場所で、穏やかに生きよう、今はそれだけでじゅうぶんだし、花丸(◎)って思っています。
なので、今これを読んでくださっているBPD当事者の方も、生きてて偉いと思います。
まとめ
今日の記事では、境界性人格障害の診断基準の3つ目の項目についての私なりの対処法を書いてみました。
今回は、どれもこれも開き直りに近い感じになってしまいましたが、かつての私は開き直ることがとても苦手でした。
なんか、開き直るって図々しい気がして気が引けていたんですよね。でも、やってみるとちょっと楽になれたんです。
つらくてしょうがない!という方に、「なるほどねー。ふーん。」程度でもいいので参考までに読んでいただけたなら幸いです。
☆彡あなたやあなたの大切な人の病気が少しでも良くなりますように☆彡